今年で第45回目を迎える「ぴあフィルムフェスティバル2023」が、9月9日(土)~23日(土・祝)にかけ、東京・京橋の国立映画アーカイブにて開催されることが決定。同映画祭のメインプログラムとなる自主映画のコンペティション「PFFアワード」の応募受付が3月23日(木)まで実施されている。

また、3月15日(水)に開催される「第4回大島渚賞」の記念上映会を前に、映画作りに没頭する高校生の青春を描いた最新作『Single8』の公開を控える小中和哉監督と、1981年のPFFアワードに入選し、大島監督と親交のあった利重剛監督が対談。映画作りを志す若者たちにとって「大島渚」とはどんな存在だったのか、当時の思い出を語り合った。

利重監督を、俳優ではなく監督として見ていた大島渚監督

──1981年の第4回PFFは、成蹊高校映画研究部の笹平剛(現・利重剛)監督『教訓I』(1980年)と、手塚眞監督『HIGH-SCHOOL-TERROR』(1979年)が同時入選しています。

「ぴあフィルムフェスティバルと大島渚の時代」連続インタビュー ②利重剛×小中和哉「(大島監督は)作りたい映画があればそれが一番でしょうという人」
(画像=『教訓I』、『ぴあエンタメ情報』より引用)

利重 当時の感覚としては、PFFというものが、まだそんなに凄いものではなかったので、入選したら文芸坐地下で上映してくれるからスクリーンが大きくなって嬉しいみたいな感覚でしたね。

──『教訓I』を推薦したのは大島渚監督。

利重 嬉しかったですね。大島さんは大好きな監督でしたから。自分はこの後、岡本喜八組に入れてもらえたので、直接の師匠は岡本喜八監督なんですけど、もうひとり、精神的な師匠としては大島渚さんでしたね。

──大島映画は、いつご覧になりましたか?

利重 高校のときに夢中で観ましたね。岡本喜八監督の『肉弾』(1968年)と大島渚監督の『少年』(1969年)。この2本が名画座にかかると、必ず観に行って何回も観ていました。

──大島監督は、映画監督を俳優で起用することがありましたが、すでに俳優活動もされていた利重監督については、どう見ていたんでしょう?

利重 連ドラに出ていたときに、TBSの廊下でたまたま大島さんとすれ違って挨拶したんですよ。その頃『戦場のメリークリスマス』の準備をしていたのを知っていたから、良かったら出演させてもらえないかって言おうと思っていたら、「いくつになった?」と訊かれて。25歳になりましたと言ったら、「そう! じゃあ本編を撮る歳だね。20代後半に頑張ったら、人間はいくつになっても頑張れるからね!」って。そのとき、役者も結構やっていたんですが、煮詰まっていた時期で。映画を作りたかった時期でもあったし、頑張んなきゃなと思って、その連ドラが終わったあと時間を空けて、ずっと脚本を書いていたんです。それが『ザジ ZAZIE』(1989年)だったんですが、大島さんの言葉に背中を押されたところがありますね。

──利重監督を、俳優ではなく監督として見ていたんですね。

利重 その方が僕には嬉しいですね。作家として見ていてくれたっていう。でも、後になって考えたら、20代後半で頑張れば、いくつになっても頑張れるって、大島さんは自分のことを言ってたんですよね(笑)。

──利重監督の『BeRLiN』(1995年)には大島監督が俳優で登場します。

利重 ベルリンの壁のかけらをお守りにしている風俗嬢がヒロインの脚本を書きはじめて、いろんな有名人たちが勝手にいろいろ彼女についてコメントするシーンを作っちゃおうと。そのときに、ベルリンの壁のかけらだったら、大島さんがコメントすれば政治的なことを言うだろうし、すごく面白いだろうなって思ったんですよ。そうしたら筆が進んで(笑)。

──大島監督が出演したシーンは、とても自然でしたが、セリフはアドリブではなく脚本にあったんですか?

利重 当て書きですね。僕が大島渚のセリフを書いて(笑)。それでこれに出てもらえませんかと交渉したら、快く出演してくださいました。『やくざの墓場 くちなしの花』(1976年)にも出演されていたので、ドキュメンタリータッチの芝居ができる方だと知っていたのですが、本番一発で見事に応えてくださいましたね。

大島監督たちが煽ってくれたことで8mm映画のムーブメントが大きくなったと思う

──高校時代から、後年まで大島監督とお付き合いが続いたわけですね。

利重 『ザジ ZAZIE』を撮った後には監督協会にも入れていただいて。入るときの推薦者が大島さんと崔洋一さん。断るわけにはいかない(笑)。Bunkamuraのドゥ マゴ パリでやっていた監督協会の忘年会の司会もやりましたね。ある年は鰐淵晴子さんにバイオリンを弾いてもらって。演奏が終わったら大島さんが螺旋階段を降りてくる。そのあと、大島さんは挨拶で、「デビュー作の『愛と希望の街』で鰐淵晴子さんに出てもらうとしたら断られました!」って叫んで。鰐淵さんも「そのとおりです。後悔していません!」と答える(笑)。とにかく大島さんとのお付き合いはおかしかったですね。

──岡本喜八監督も大島渚監督も、撮影所出身でメジャー大作も撮れば、ATGでローバジェット映画も撮る監督でした。

利重 大きい映画も小さい映画も、どっちが偉いとかじゃなくて、作りたい映画があればそれが一番でしょうという人でしたね。僕からすると巨匠なんですけど、見事な映画をいっぱい作って、自分の人生を変えてくれたような人たちなんですけど、人柄がファンキーで、お友だちになってくれたんですよ。こんなことを考えているんですと言うと、「面白そうだね。やってみなさい」と言ってくれる人たち。あの人たちが煽ってくれたことで、8mm映画のムーブメントが大きくなったと思います。