2022年10月14日より実写映画版『耳をすませば』が公開されている。原作は1989年に連載されていた柊あおいの漫画であり、同時に1995年のスタジオジブリによるアニメ映画版もかなり意識された内容となっていた。ちょうど「アニメの続編が実写になった」印象で観られるだろう。

©柊あおい/集英社 ©2022『耳をすませば』製作委員会
 W主演を務めた清野菜名と松坂桃李がすばらしいのはもちろんだが、ここでは原作にはいない、今回の映画オリジナルキャラクターを演じた田中圭を推したい。

 登場シーンは決して多くはないが、物語全般に大きく作用し、かつ『耳をすませば』の精神を汲み取った重要な役柄であり、田中圭の存在感や演技力も見事に活かされた役だったからだ。その理由を記していこう。

◆正直な意見を求めていたのにも関わらず……

©柊あおい/集英社 ©2022『耳をすませば』製作委員会
©柊あおい/集英社 ©2022『耳をすませば』製作委員会
 今回の実写映画版『耳をすませば』では、原作漫画およびアニメ版でも描かれた中学生時代と、それから10年後の大人時代が並行して描かれている。その大人時代で、天沢聖司(松坂桃李)はイタリアでチェロ奏者として日々鍛錬し、一方で月島雫(清野菜名)は編集者として出版社で働きながら作家になる夢を追い続けている。

 その雫が担当しているのは、児童書の作家である園村真琴(田中圭)。公式の触れ込みでは「物静かな性格だが、純粋さを心の内に秘めており、正直な意見を編集者に求める」とある。

 劇中で、雫は部長からの「内容を変更してほしい」という要望を一方的に彼に伝えて了承してもらうものの、「雫さんはこの作品をどう思っているんですか」と聞かれても、ずっとごまかしたり、はぐらかしたりしてしまうのである。

◆言葉以上の意志を感じさせる演技

©柊あおい/集英社 ©2022『耳をすませば』製作委員会
 このときの田中圭は、「もう少しで泣き出してしまいそう」なほどに、「正直な感想を聞きたい」という言葉通りのことを、その言葉以上の意志を持って必死で訴えようとしているように見える。表面的にはずっと不機嫌で無愛想という単純な言い方もできるのだが、「それだけではない」複雑な感情を示す田中圭の演技力そのものに感服させられた。

 その田中圭演じる作家の振る舞いや表情は、仕事に対してのストイックさ、いや信念も感じさせる。対して、清野菜名演じる今の雫は作家の夢を追い続けたいのかどうかもわからなくなり、会社の上司から言われるままの言動をして、目の前の作家に対しても正直な意見を言えないでいる、いわば「空っぽ」または「宙ぶらりん」とも言ってしまえる状態なのだ。

 そんな相手に当然の不満を、いや憤りを募らせ、とある決定的な言動をする田中圭の演技は、良い意味で怖くなるほどでもあった。親しみやすくコミカルな役も演じる印象もある田中圭だからこそ、雫と同じく観客もまた、その言葉を重く受け止められるだろう。

◆アニメ版とちょうど逆転した役割

©柊あおい/集英社 ©2022『耳をすませば』製作委員会
 田中圭演じる作家は、この映画単体での物語上はもちろん、『耳をすませば』という作品に通底する精神性を相対的に際立たせるという意味でも、重要な役割を果たしている。

 何しろ、アニメ版において中学生の雫は小説を書き上げ、それを読んだ聖司のおじいさんから「切り出したばかりの原石を、しっかり見せてもらいました」などといった、正直でありつつも、これからの「可能性」も肯定するような、素敵な言葉をかけられていた。

 そんな雫が、今回の実写映画では、作品の正直な感想を求められるようになるという、ちょうどアニメ版のおじいさんと逆転した立場になる、というわけだ。

 さらに、アニメ版のおじいさんは「時間をかけてしっかり(作家としての力を)磨いて下さい」などととも言ってくれていたのだが、この実写映画版での雫はそれから10年という時間をかけても、作家としてまったく芽が出ないという現実に直面しているのだ。

◆大人になって変わってしまった夢への向き合い方

©柊あおい/集英社 ©2022『耳をすませば』製作委員会
 つまり、田中圭演じる作家は、大人になった雫にとっての「あの頃の自分とは逆の立場」であり、同時に「10年をかけてもなれなかった(なりたかった)人物」とも言える。

 アニメ版では中学生という年齢だからこその夢への憧れ、そして時間がたくさんあるからこその希望も示してくれたが、今回の雫と作家との掛け合いは、それから長い時間が経過し「大人になって変わってしまった夢への向き合い方」を相対的に、残酷なまでに示しているというわけだ。

 もちろん、その残酷さを示したまま物語が終わるわけではない。詳しくはネタバレになるので控えておくが、そこには『耳をすませば』という作品に通底する、そして普遍的な「(大人になってからの)夢」についての、万人に響く尊いメッセージがあったのだから。

 それでいて、決定的な断絶を生んだ編集者と作家の関係について、安易な解決方法に頼ることなく、社会人としての真っ当な姿勢を示してくれたことも、とても誠実だった。とある「やりすぎ」な行動をしてしまう清野菜名演じる雫に対しての田中圭の対応も、アニメ版の雫のキャラクター性と、田中圭というその人のイメージも活かした、生真面目で尊いものとして映った。

 この田中圭のエピソードを筆頭に、実写映画版『耳をすませば』は、原作(漫画およびアニメ版)のエッセンスを十分に汲み取りつつ、そちらを相対化した作劇がうまくできている、優秀な作品であったと思う。『耳をすませば』のファンはもちろん、大人になってから夢とどう向き合えばわからなくなったという人も、ぜひ映画館で見届けてほしい。

<文/ヒナタカ>

【ヒナタカ】

「女子SPA!」のほか「日刊サイゾー」「cinemas PLUS」「ねとらぼ」などで映画紹介記事を執筆中の映画ライター。

Twitter:@HinatakaJeF