ADSLが来て世界が変わった
2001年9月にYahoo! BBがADSLサービスに参入し、ほどなく駅前で彼らのモデムが配られるようになり、一気に突入したADSL時代。ケーブルテレビより安価なのも導入しやすかった。
しかし、いきなり全国で使えるようになったわけではなく、徐々にサービスが拡大していくのを今か今かと待つ日々。うちにいつADSLが来たのかの記録は残っていないが、確か2002年の5月ごろに、NTT東日本のフレッツADSLを導入した。
ADSLが使えるかは、NTTの収容局からの距離が大きく関わる。近いとスピードが出るし接続は安定するが、遠いとスピードは出ないし、不安定な接続になる。
当時ADSLにはスピードの出る8Mサービスと、遅いが収容局から離れても比較的使える1.5Mがあった。家は確かNTTの収容局から4.7キロほど離れていて、ADSLを使うにはギリギリの距離。当然8Mは使えず、1.5Mを何とか導入できた。
回線スピードは1Mbps(1000kbps)も出ていないくらいだったと思う。それでも……速すぎて、大感激した。
ムリもない、それまでのスピードはせいぜい50kbps程度で、それより20倍くらい速いのだ。数秒ほどですべて読み込めるページが飛躍的に増えた。
「世界が変わった」。そんな言葉を生まれてはじめて使ってもいい、それほどの感動だった。
電話回線も同時に使えるようになったため、固定電話への着信におびえることもなくなる。
それから、12M、24MとADSLサービスを乗り換えていった末に、最終的に2009年10月にNTTの光インターネットサービス・Bフレッツへ加入し、最大100Mbpsの回線が使えるようになった。
長い旅は終わりを告げた。しかし「ADSL→光」の感激は、「ダイヤルアップ→ADSL」には及ばない。ダイヤルアップ時代の終わりを告げたADSL回線はそれほどの存在だったのだ。
速度はダイヤルアップの6割。往年のモバイル接続
ADSLがついに登場して、これでバッチリ……と言いたいところだったが、そうなっても速くならなかったのが、外出先でのモバイルインターネットだ。
当時最大384kbpsの速度が出たFOMAらのPCネット接続は、従量制でつないだ分だけパケット代が跳ね上がって高額になってしまうため、おいそれと手が出せなかった。
その代わりに、当時定額料金で主流だったのはDDIポケットが提供していたエアーエッジで、速度は最大32kbps。128kbpsの特別プランもあったが、月々1万円近くの大金を払わなければいけなかった。おまけに、まだまだ公衆Wi-Fi環境はへなちょこで、あちこちでつながる今とはほど遠い有様だった。
スマホから電波を飛ばしてネットにつなげる「テザリング」はなく、当時のノートPCにあったカードスロットにデータカードを差し込んで、インターネットにつないだ。
そこまで大がかりなことをやっても、スピードは最大32kbpsと、ダイヤルアップの最大56kbpsの6割程度。「トルネードWeb」なる、データを圧縮させるソフトを使っても遅くて参ってしまうほどだったが、それでも、出先でインターネットができるのはうれしかった。
当時なけなしのお金をはたいて購入した、今はなき激安PCメーカー・SOTECのWL2120をどこへでも持ち歩いていた。モバイルノートなのに2.1kgもあったし、バッテリーも1時間半ほどしか持たなかったが、それとエアーエッジをつないでインターネットをする時間が、宝物だった。
それから256kbpsの回線を導入するなど、徐々にスピードアップしていった筆者のモバイルインターネット。そして2010年代に入り、スマホで4G回線によるテザリングが使えるようになってからは、回線速度の問題をなつかしい過去にできた。
◇
テレホタイムの深夜、クリックとともにゆっくりとベールを脱ぐように姿を現すウェブサイトたち。アングラなサイトも多かった当時は、闇夜を懐中電灯だけでおそるおそる進むようなスリルがあった。
あのころには絶対に戻りたくないが、昔のデパート大食堂で、30分待って食べたお子様ランチがおいしかったように、低速回線に耐えたからこそ味わえたとびっきりの楽しさが、確実に存在した。
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