ラストまでわずかとなったNHKの朝ドラ『ちむどんどん』。ツイッター上の“ #反省会”も盛り上がっています。4月の開始当初から、荒唐無稽なキャラクターとあまりにもご都合主義的なストーリーが議論を呼んでいるのです。

『ちむどんどん』
『連続テレビ小説 ちむどんどん Part2 (2) (NHKドラマ・ガイド) ムック』 (NHK出版)
 それでも脚本の羽原大介氏は「朝見ていただいて“今日も一日頑張ろう”と思っていただけるようなドラマ作りが一貫してできた」(『琉球新報』2022年9月3日)と胸を張ります。

 実際、ハチャメチャな展開と吉本新喜劇的な“スベり”の笑いをあえて楽しむ視聴者もおり、話題にのぼり続けた点では成功したと言えるのかもしれません。

◆大映ドラマ的な「ネタ」として楽しむもの?

 というわけで、筆者も遅ればせながら参戦しました。大げさなセリフ回しに、過剰な身振り手振り。けれども深刻さはなく、“あえてやっていますよ”といったエクスキューズを匂わせる演出。

 一見して“これは大映ドラマ(注)のパロディなのではないか?”との感想を持ちました。ミュージシャンの高野寛氏も5月18日に自身のツイッターで同様の見方を示しており、つまり『ちむどんどん』は好むと好まざるとに関わらず、ある程度ネタとして楽しむべきだと理解したわけです。

(注:1970年代から1980年代にかけて人気を博した大映テレビ制作のドラマ。過酷な運命に翻弄される主人公や、衝撃的なストーリー展開と大げさな感情表現を交えたセリフが特徴的。主な作品に『スチュワーデス物語』『不良少女とよばれて』『スクール・ウォーズ』など)

◆三浦大知が歌う主題歌がガチでいい曲過ぎる

 もちろん、そうしたアプローチ自体に何の問題もありません。けれども引っかかる点があるのです。それは三浦大知が歌う主題歌「燦燦」(作詞・三浦大知 作曲・UTA 三浦大知)。ガチでいい曲過ぎて、なんか浮いちゃってない?

三浦大知「燦燦」SONIC GROOVE
三浦大知「燦燦」SONIC GROOVE
 メタフィクション的に笑いを引き出そうとする作りにおいて、三浦大知の歌だけが真摯なのですね。そこに違和感を覚えてしまう。

 ドラマにとって主題歌は顔のようなものです。およそ4分半の中で、曲調や詞のフレージングによって物語の雰囲気や登場人物の性格などのニュアンスを伝えなければいけません。いわば香りのような役割であり、視聴者の理解を助ける強力な補助線となるべき要素です。

 そう考えたときに『ちむどんどん』と「燦燦」との断絶をどう捉えたらいいものか…。

◆誠実さが投影されたような曲がドラマのトーンと噛み合っていない

「燦燦」は三浦大知という人の誠実さが投影されたような曲です。字句のひとつひとつを丁寧に発音し、ボーカルメロディは二度の転調を経て着実にクライマックスへ向かっていく。

<響いて この歌 あなたは 降り注ぐ順光線

 続く空に踊る光 「大丈夫 ほら 見ていて」>

 このフレーズとメロディに皮肉めいた仕掛けはありません。歌詞そのままの真っ直ぐな思いであり、その道徳的な正しさを素直なハーモニーが下支えしている。中高生に合唱させたい曲ナンバーワン。そういう曲なのです。

 しかし、これがどうにもドラマのトーンと噛み合っていないから困ってしまうわけです。寿司屋だと思って入ったらカレーが出てきた、みたいな。

 そこに詰めの甘さを感じたのですね。プロットや演出の意図と音楽のトーンが致命的に食い違っている。そのズレがユーモラスな質感を与えるわけでもなく、「燦燦」のマジメさが宙ぶらりんになっているのみ。

“じゃあ「借金大王」(ウルフルズ)みたいな曲だったらいいのか”と言われると、それもフィットする絵が浮かんでこない。そこまでわかりやすいバタバタ要素もなかったからです。

◆脚本家&制作陣が共有のイメージができていないのが原因か

 そう考えると、『ちむどんどん』をひと言で言い表せるニュアンスのようなものが存在していない。それこそが問題なのではないでしょうか。

 本作は脚本家、そして制作と演出のトップがアイデアを出し合う形式で制作されたとのこと。けれども、誰も作品のモチーフである料理についての知識がなかったのだそう。『ちむどんどん』のガイド本で以下のように語っています。

 <「白状しますと、僕たちおじさん3人は料理の知識がまったくないんです。」(羽原氏)

「僕にとって料理は『美味いか、不味いか』ではなく、『食べられるか、食べられないか』。そういうレベル」(チーフ演出、木村氏)>

(『連続テレビ小説ちむどんどんPart1 NHKドラマ・ガイド』NHK出版より)

『ちむどんどん』
『連続テレビ小説 ちむどんどん Part1(1)(NHKドラマ・ガイド)ムック』(NHK出版)
 これで謎がとけました。根幹の部分で共有できるイメージがないのだから、匂い立つようなオーラが生まれるはずがありません。もしこれが自虐ではなく本音だとしたら、複雑に異なる要素をまとめてひとつの“味”にする以前の問題なのではないでしょうか。

 そりゃ主題歌のことにまで頭が回るわけないよな。しゃあない。

<文/石黒隆之>

【石黒隆之】

音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4