作家のこだまさんと村井理子さんは、ままならない家族関係について、そのやるせなさを超えてわずかな希望を見出すエッセイを書き、多くの読者を獲得してきました。従来の家族観を更新させるその文章が共感を得る一方で、ふたりは身内について書くことの苦悩や欲望とどのように向き合っているのでしょうか。

村井理子さん(左)とこだまさん。ともに家族について綴る作家であり、互いの著書の読者でもある
 村井さんは「ここまで書いてよかったのか」と常に自問自答しながらエッセイを書いていると言います。一方、家族に執筆活動を伏せているこだまさんは「バレたら勘当」も覚悟しているそうです。立場は違えど、お互いに悩みながら、家族のことを書くふたりは今回初対面。しかし、これまでもお互いのエッセイをを読みながら、同志として支え合っていたそうです。

◆お互いに書き続けているから安心できる

――以前、村井さんが「こだまさんが書いているから私も書き続けられるところがある」とおっしゃられていました。

村井:そうですね。こだまさんのように日常生活の細かなことを書き続ける人がいるのは嬉しいというか、「私もこのまま書き続けて大丈夫だろう」という安心感につながるんです。私にとって書くのは怖いことなので、同じように書いてる人がいて、それを読めるだけで嬉しい。

こだま:ありがとうございます。私も村井さんが家族について書いたものを読んで、私ももっと家族のことを書き残そうって思ったんです。お互いにそう思っていたんだと知って、今びっくりしました。

村井:エッセイって、自分の大切な人たちのことをここまで書いてよかったのかと常に自問自答するジャンルなので、こだまさんも書いていると思えることが、心の支えになっています。エッセイってどこまで情報を出すかのさじ加減もすごくギリギリのところでやるじゃないですか。こだまさんだって、ペンネームとはいえ、身バレしないように決定的な情報は避けながら、面白さを保つためにギリギリまで攻めてるはずで。

こだま:そうですね。私もいつか家族にバレて絶縁されるんじゃないかと覚悟しながら書いています。

村井:私もこだまさんも、なんで書き続けるのか聞かれても自分でもよくわからない。ただ「書きたい」という抑えきれない欲望があって、その欲望に飲み込まれないように、周りの人たちに配慮しながら書き続けるしかないですよね。

◆落ち込んだときにユーモアを一度手放した

――こだまさんが新刊『ずっと、おしまいの地』で、「力づくで笑いに寄せる癖を改めた」と書かれていたことに驚きました。

こだま:当時は心療内科に通ったりして、自分の気持ちが上向かない日が多くて、そうすると楽しいことも書けなかったんです。それで日常を淡々と書くようにしました。やっぱり自分の心が健康じゃないと、楽しいことって思いつかないんです。それでも書いていくために、一旦ユーモアを手放しました。

村井:やっぱり精神面で落ちてるときは、なかなか書けないですよね。

こだま:そうですね。自分が元気になってはじめて、落ち込んでいた日々のことをおもしろおかしく書こうって気持ちが出てくる。渦中にいるときは沈んだ文章になりがちで、ユーモアが湧いてこず、暗い文章が多くなりました。でも『ずっと、おしまいの地』の後半は自分的には派手なエッセイが並んでいます。気持ちの変化に合わせて、浮き沈みしている本になったかもしれません。

――こだまさんにとって、ユーモアは毎回ひねり出すイメージですか?

こだま:改めてそこを聞かれるのは、すごく恥ずかしいですが……。ひねり出すというよりは、手癖に近いです。ブログ時代の癖。文章の構成も手癖が多くて、「ここで畳みかけよう」みたいなのも、自分で読み返すと全部わかってしまうんですよ。

村井:文章の落とし方とか「あぁ、きたきた!」って、自分ではわかっちゃうんですよね(笑)。

こだま:はい。連載時は2か月に1回のペースだったんで、締切のときには以前書いたものを忘れてるんです。だから本にまとめてはじめて、「私、いつも同じ書き方してる」って気づいて恥ずかしくなります。

◆日常のすべてが文字に変換されていく

こだま:連載って前回書いたものを忘れて書くので、同じ構成になりがちなんです。

村井:私もそうなりがちです。『兄の終い』や『家族』、『全員悪人』といった書きおろしの本は、短時間で勢い余って書くので、少し違うかもしれませんが。

こだま:どれくらいのスピードで書かれたんですか?

村井:どれも1週間ちょっとでした。

こだま:すごく早い!

村井:常になにかを言葉で考えてしまうんです。電車に乗ってても、車窓から見えるマンションの部屋の明かりを見るだけで、どういう生活があるんだろうって考えてたまらない気持ちになる。目に映るものすべてが文字に置き換わっていくんです。だから書き始めると早いんですよ。

こだま:私はパソコンに向かった時点でいつも無になって、締切が来てようやく指が動き出すタイプなので、文字が目に浮かぶのは想像できないです。子供のころから文字が見えてましたか?

村井:すべてが文字に置き換わるようになったのは翻訳の仕事を始めてからなので、ここ15年くらいですね。入院したときに痛み止めを打ってもらったら、壁を延々文字が流れてきて、たまらなかったです(苦笑)。

◆こだまさんが抱える絶対に失敗したくない題材

――一気呵成(いっきかせい)に書く村井さんと、締切をきっかけに書き出すこだまさんとで対照的ですね。こだまさんは『ずっと、おしまいの地』でも「何年も書けずにいる文章がある」と明かしていました。

こだま:仕事で接してきたある男の子の話を小説にしようと思ってて、書きあぐねてます。それはエッセイじゃなくて小説なんですが、小説となるとどうしても自分の中でハードルを上げてしまって……。あとなにより、家族のことや自分のことだったら、締切が迫ってくれば「書いちゃえ」ってできるんですが、その子のことは大切に書きたくて。

村井:なるほど。もう何年も書けてないと苦しいですね。

こだま:ずっと待たせている担当編集の方にも申し訳なくて……。その男の子のことは、書かずにはいられないと同時に、彼を題材にして失敗したくない気持ちもかなり強い。絶対にいいものにしなくちゃと思うと、書けなくなるんです。

村井:そういうときって体の中で寝かせている分、始まったら早いんでしょうけどね。

――でも、家族のことだったら「書いちゃえ」となれるのは、いい意味で家族に甘えられているんだなと感じました。

こだま:知られてないのをいいことに甘えまくってますね。そこも本当はもっと慎重になったほうがいいなと反省もするんですが、結局書いてしまう。最終的にはただひたすら自分の書きたい欲望で突っ走っちゃうんですよね。

◆家族を一方的にエッセイにする怖さ

――いちばん身近な家族について書くにあたって、家族の関係性が変わることや、家族のプライバシーを必要以上に書きすぎてしまうことへの不安や怖さはありませんか?

こだま:私は自分が書いていることを実生活では知られていないので、その点はほとんど気にせず書いてます。

村井:私は題材にした人たちの悪影響にならないかという怖さを常に感じてますね。特に兄の息子については思うところがあります。

こだま:お兄さんが最期のとき、宮城県で二人暮らししていた息子さんのことですか。

村井:はい。『兄の終い』って結局、苦労して野垂れ死んでしまった兄の最期を切り取ってるので、それだけじゃフェアじゃないと思ったんです。彼の人生を丸ごと書かないと、兄の子どもはいい気持ちはしないだろうなと。それで『家族』では、幼い頃から大人になって亡くなるまでの兄のことを書きました。

こだま:『全員悪人』では、認知症のお義母さんのことを克明に書かれていましたが、そのときも書くことの怖さと向き合っていましたか。

村井:そうですね。義母については、決定的なことはどうしても書けませんでした。認知症になると、隠れていた感情もすべて出てくるじゃないですか。そこも書けたら物語として、より面白くなったと思いますが、同じ女性としては書けなかった。とはいえ、だいたいのことは書いてますけどね。

こだま:私自身、父ががんになってからは、彼の言動を書きとどめておいてよかったなという気持ちが強くて。むしろ書かずに忘れていってしまうことの怖さのほうが大きいなと思います。

村井:こだまさんの文章は登場する人々を一面的に描かずに、いろんな側面を持ちすぎている人間という存在を丁寧に書いてますよね。自分の価値観だけで人を断罪せずに、人のいろんな顔を書き抜く。それも書く怖さを克服する一つの術なんだと思います。

こだま:ありがとうございます。『ずっと、おしまいの地』を無事出せて気持ちも上向いている上に、こうやって村井さんに励ましてもらったので、ずっと寝かせている小説も今こそ書けそうです。

村井理子

翻訳家・エッセイスト。著書に『家族』(亜紀書房)、『兄の終い』『全員悪人』(共にCCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)など。新刊は読書案内エッセイ集『本を読んだら散歩に行こう』(集英社)。翻訳は『エデュケーション』(タラ・ウェストーバー著、早川書房)、『サカナ・レッスン』(キャスリーン・フリン著、CCCメディアハウス)、ほか多数手。

こだま

作家、喫茶店アルバイト。2017年、実話をもとにした私小説『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)でデビューし、ベストセラー作家に。「Yahoo!検索大賞」(小説部門)を2017・2018と二年連続で受賞。二作目となる『ここは、おしまいの地』(太田出版)では第34回講談社エッセイ賞受賞。著書に『いまだ、おしまいの地』『縁もゆかりもあったのだ』(いずれも太田出版)。

<取材・文/安里和哲 撮影/山田耕司>