女優・南野陽子さんと、1970年から長年続いた内戦で存続の危機に瀕していたカンボジアの伝統的な胡椒を復活させ、世界に広めた立役者である倉田伸浩さんの対談企画です。
20世紀後半、アジア各国が経済的に成長する中、20年以上に渡り内戦が続いていたカンボジア。内戦終了後もしばらくは経済的に不安定な時期が続き、日本からも多くのボランティアが訪れました。女優の南野陽子さんもそのひとり。
内戦終了から30年。カンボジアの経済は大きく発展しました。その成長に貢献したひとりが、カンボジアで胡椒メーカー『クラタペッパー』を営む日本人経営者・倉田浩伸さんです。
南野さんが今一番会いたい人物と語る倉田さん。ふたりの対話を通じて、文化も価値観も異なるふたつの国をつないだヒントを探っていきます。
■「生きるって何だろう」
南野陽子さん(以下、南野):私は、1989年に初めてカンボジアを訪れて以来、カンボジアが大好きになって。それからずっとカンボジアのニュースが流れると気になるし、私に何かできることはないかなとは考えるけど、きちんと向き合ってきたかと言われると自信がなかったんです。
もうすぐ日本とカンボジアの外交樹立70周年記念ということで、この機会にカンボジアと関わりが深い方のお話を伺いたく、倉田さんをお呼びいたしました。
倉田伸浩さん(以下、倉田):ありがとうございます。日本と行き来しながらですけど、カンボジアにはかれこれ30年いるので、若いカンボジア人よりはカンボジアに詳しいと思います(笑)。
南野:倉田さんは1994年にカンボジアで起業し、カンボジア産の胡椒「クラタペッパー」を生産・販売しているんですよね。そもそも、カンボジアに興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?
倉田:映画『キリングフィールド』がきっかけですね。カンボジア内戦をテーマにした作品なのですが、虐殺の様子が残酷すぎて、当時高校生だった僕にはショッキングな映像でした。さらに、映画の最後に「この物語は史実にもとづいて作られたものです」という内容のテロップが表示されて……。こんなとんでもないことが、10数年前まで近くの国で起きていたのかと呆然としましたね。
映画を見終わったあとも「なぜあんなひどいことが起こってしまったんだろう」とショックが消えなくて……。その足で書店に行き、カンボジア関連の書籍を購入しました。それから毎日その本を読んで、それでもまだ疑問が拭えないから図書館でも本を借りて。
でも、当時は地方に住んでいたので、書店や図書館に資料があまりなかったんです。だから、大学は東京に出て、もっとたくさんの本を調べようと思っていました。
南野:たしかに衝撃的な映画でしたが、そこまで倉田さんが突き動かされた理由はいったい何だったのでしょうか?
倉田:映画が公開される1年前の中学3年生のとき、兄を交通事故で亡くしたんです。僕は4人家族だったのですが、兄の死から家族のバランスが崩れていくのを目の当たりにしました。そこから「生きるって何だろう」「何のために僕たちは生きるんだろう」と人の生死をより深く考えるようになったんです。
『キリングフィールド』に出会ったのはそんなタイミングでした。映画を見て「家族がひとりいなくなるだけでも、周りの人の思いや生活、いろんなものが一変してしまったのに、こんな虐殺が起こったらいったいどうなってしまうのだろう。何でこんなにつらいことが起こってしまったんだろう」と考えが止まらなくなったんです。
■カンボジアの人たちから「生きること」を学ぶ
南野:そうだったのですね。それから高校や大学でカンボジアについて学んでいったかと思うのですが、初めてカンボジアに行ったのはいつですか?
倉田:1992年ですね。映画を見てから7年かかりました。当時は今よりも情勢が不安定で、日本からカンボジアへの直通の飛行機がありませんでした。ボランティアに志願もしていたのですが、タイミングが悪くてなかなか行けなくて。1991年にパリ和平協定が結ばれ内戦が終結し、ようやく行けるようになったんです。
南野:私が初めてカンボジアに行ったのは1989年でしたが、当時は銃を持った人が空港を歩いていて……。倉田さんのときはどうでしたか?
倉田:まず、飛行機から降りた瞬間のまとわりつくような暑さと、生ゴミのような匂いに驚きました。カンボジアについてはたくさん学んできたつもりでしたが、空気や匂いまではイメージできなかったので衝撃を受けましたね。
それから、空港の売店にあったペットボトル入りの水を買ったんですよ。ひどく暑かったからその水を一気飲みして。そうしたら、お腹を下して3日間寝込んでしまったんですよ。後から話を聞いたところ、現地の人は町の人が売っている水は絶対飲まないらしいんですね。いくら空港やホテルで販売していても。
カンボジアの人のために救護バッグを持ち込んできたのに、まさか真っ先に僕が現地の人たちに看病されることになるなんて……。「自分はいったい何しに来たんだ」と情けなくて仕方なかったです。
南野:それからカンボジアに定住するようになったのはどうしてですか?
倉田:カンボジアの人たちの“生きる力”に感銘を受けたんです。日本にいたときは「生きるって何だろう」とずっとモヤモヤしていたけど、カンボジアにいると自然と「あぁ、生きるってこういうことだったんだな」と思えるようになって。
当時ボランティアをしていた場所の近くに溜池があって、子どもたちの遊び場になっていたんです。素っ裸で飛び込んだり、水をすくって飲んだり。ちょっとしたことで大笑いして、怪我をしたとか、嫌なことがあっても笑い飛ばして。強くて朗らかな人がとても多いと感じたんです。
南野:カンボジアの人たちって、キラキラしていますよね。子どもだけじゃなくて大人も。
倉田:本当に。僕なんてペットボトル入りの水で3日間寝込んだのに、この子たちは楽しそうに走り回って水の中に飛び込んで、疲れたらそこの水を飲んでいるんです。この子たちの生きる力はすごいなって。僕はカンボジアで、人々から学ぶことがたくさんあるなと思い、日本に帰らず留まることにしたんです。
南野:それから起業するまでは、どんな活動をされていたんですか。
倉田:NGOに参加して、カンボジアに援助物資を届ける活動をしていました。でも、税関で突き返されることも多いんですよ。「通してほしかったらお金を払え」って。でも、僕たちはNGOだからお金は払えない。カンボジアの人たちの助けになりたくて目の前まで来ているのに、届けることができなくて悔しい思いをしていました。
南野:そこから倉田さんはどうしたのですか?
倉田:ここで喧嘩をしても、余計にお互い引けなくなって前に進まないんですよね。お金以外の方法で仲良くなれないかなと考えて。それで、税関で受付をしている方たちとコミュニケーションを取ってみることにしたんです。「僕日本から来たんだけど、カンボジア語教えてもらえる?」って。最初は相手にしてもらえなかったんですが、徐々に受け入れてもらえるようになりました。
あるとき、習った言葉で税関の方と交渉をしていたら、僕の発音が間違っていたようでその様子を見ていた周りの人たちが吹き出したんですね。そしたら、いつもは怖い顔で僕を突っぱねる税関の方も一緒になって笑ったんですよ。その様子を見ていた受付の方が、「この日本人は、こんなにがんばっているんだから、そろそろ通してあげなよ」って税関の方に話してくれて。
それから、僕が行くとスムーズに税関を通れるようになったんです。これなら貿易ができそうだと思い、クラタペッパーの前身となる貿易会社を立ち上げたんです。
南野:理不尽で悔しい思いもたくさんしたでしょうに、あくまで和やかに物事をすすめていく姿勢がすごいですね。
倉田:全部カンボジアの人たちから学んだんですよ。同じ方向を向きたいなら、いがみ合っても喧嘩しても何も解決しない。そうじゃなくて、笑い合えるコミュニケーションが必要だって。
■キリギリスのように、今を全力で楽しむ生き方もある
南野:カンボジアで会社を立ち上げてから、すぐに胡椒に着目されたのですか?
倉田:いいえ、最初は煮詰まっていましたね。カンボジアの役に立ちたくて会社を立ち上げたのに、何をしたらいいかわからなかったんです。
途方に暮れて一度日本に帰ったのですが、そのときに母親から「内戦が始まる前、カンボジアに住んでいた親戚がいる」と話を聞いて。それからその親戚に会いに行って、以前のカンボジアのことをいろいろ教えてもらいました。
「内戦以前のカンボジアは農業も盛んだし、鉄も取れるし、メイドインカンボジアの工業製品もたくさんあった」と。親戚が当時のカンボジアの統計資料を持っていて、それを僕に譲ってくれました。
南野:内戦が始まる前は、豊かな国だったんですね。
倉田:そうなんです。それからカンボジアに戻って農家を訪れてみたら、「昔は“カンボジアの胡椒は世界一”と言われていたけど、今は地域の人たちだけで育てて食べている」と伺いました。
親戚からもらった資料を見ても、以前は胡椒の生産が盛んだった。でも、内戦でほとんどの胡椒農家が壊滅し、現在は内戦の中で奇跡的に数本残った苗を大切に育てていると言うんです。その話を聞いて、「もともとカンボジアに根付いていた胡椒産業なら、現地の人たちと力をあわせて何とかなるかもしれない。カンボジア復興の一助になれるかもしれない」と思ったんです。
南野:初めてカンボジア産の胡椒に出会ったとき、どう感じました?
倉田:もう衝撃的でしたね。「これは特別な胡椒だ」と感動しました。まず色つやが違うんですよ。光にかざすとキラキラ光るんです。そして、ほんのり甘くてフルーティな匂いも特徴的でした。僕の知っている胡椒とあまりにも違うから、最初はドライフルーツかと疑ったほどです。
南野:当時、「カンボジアに何かできることはないか」と考える日本人はたくさんいました。でも、倉田さんのように「カンボジアにもともとあったものを活かす」という発想の人はいなかったように思います。心からカンボジアに寄り添っている姿勢がすごい。カンボジアや胡椒についてお話するときも、愛が溢れていますよね。
倉田:根っからのカンボジアオタクなので(笑)。
南野:胡椒で事業を始めようと決意したあとはどうでしたか?
倉田:全然うまくいかなかったですね。90年代のカンボジアってあまりいいイメージがなかったんですよ。最近まで内戦していたから汚いとか、ネガティブなイメージを持たれることが多くて。
今でこそ日本のメーカーさんともやりとりさせていただいていますが、当時は営業しても“カンボジア産”と言うと門前払い。味見すらしていただけなかったですね。
南野:すごくいいものなのに……。
倉田:かつて“世界一の胡椒”と言われていた頃と同じく、農薬を使わず手間暇かけて大切に育てているんです。そのため、市場に出回っている他の胡椒より価格も高めに設定していました。しかし、“カンボジア産”というだけで安く見積もられてしまうことが多くて。価格を伝えたところ、「ぼったくり」と言われたこともあります。
大切に胡椒を育ててくれる農家の方々にお金を払わなきゃいけない。事業の維持にもお金がかかる。でも、胡椒が売れない。せめて農家の方の給料だけでもなんとかしなきゃと、中古の医療機器販売をしていた時期もあります。それでもお金は足りず、借金だらけでした。
南野:当時、倉田さんのもとで働いていた方との関係はどうだったのでしょうか。
倉田:良好な関係とは言えなかったです。一生懸命働いてもらっているのに、安い給料しか払えなかったので。ほとんどの従業員が辞めていきましたね。
南野:苦しい時期があったのですね。今ではクラタペッパーは世界的な胡椒ブランドとなっていますが、転換点はどこだったのでしょう?
倉田:1999年に世界の胡椒の値段が急騰して、一気に状況が変わりました。それまでは1kgあたり250円くらいが相場だったのですが、その4倍の1000円くらいにまであがったんです。
1000円で売ることができれば、農家の人たちにも十分な給料を支払えるし、経費もまかなえます。そうすると、「子どもを学校に行かせよう」「大学に行きたい」と夢が生まれるようになる。
価格の急騰が落ち着いたあとも、クラタペッパーは1000円から下げませんでした。この金額が、カンボジアの人たちが豊かになれる金額ですから。
南野:起業から約10年間、耐え忍んでやっとチャンスが来たのですね。でも、価格を下げないのも苦労があったのではないですか?
倉田:大変でも、笑ってさえいればなんとかなるんですよ。日本人って、ついつい先のことを心配するじゃないですか。アリとキリギリスのお話とか典型的な例ですよね。冬に備えてしっかり準備していたアリが称賛される。
でも、カンボジアの人たちはキリギリスのように、その瞬間を楽しんで生きようと一生懸命なんです。どちらが良い悪いとかではなくて、「キリギリスのような豊かさもあるんだ」とカンボジアの人たちに教えてもらいました。
その結果、かつては“カンボジア産”と言っただけでどこも門前払いだったのに、今では日本のメーカーからお声がけいただくことも多いんです。また、カンボジアや日本だけでなく、フランスやイギリスにもクラタペッパーが広まってきています。苦労も多かったですが、「世界一の産業」が再びカンボジアに根付きつつあって、本当にうれしいですね。
■私たちの人生は豊かだろうか?
南野:倉田さんは昨年1年間、久しぶりに日本に長期滞在していたそうですね。
倉田:長らく日本とカンボジアを行き来していたのですが、新型コロナウイルスが流行した影響で、そのときたまたま滞在していた日本に留まることになったんです。1年も日本にいたのは、約30年ぶりでしたね。
南野:久しぶりに長期滞在して感じたことはありましたか?
倉田:日本は大丈夫かな、と心配になりました。日本に戻ってきてから、“豊さ”について考える機会が増えましたね。
南野:“豊かさ”ですか?
倉田:一般的に、日本はカンボジアよりも“豊かな国”と言われることが多いですよね。でも周りにいる日本人を見ていると、一生懸命働いても「お金がない」と愚痴を言って、いつも何かに追われている人たちが多くて。お金があったらあったで、誰かに奪われないか不安で、疑心暗鬼になってしまう人もいる。
カンボジアだと、お金がなくても誰かが手を差し伸べてくれるんですよ。お腹がすいたら近所になっているマンゴーをもいで食べる。それが見つかっても文句を言う人はいないんですよ。むしろ、お腹がすいているならもっと持っていけって勧めるんです。お金がない人もある人も、みんなで助け合っている。どんなときでも朗らかで、心に余裕がある人が多いんですよ。
南野:わかります。昔カンボジアに伺ったとき、暖かい気候と豊かな木々と、そして朗らかな人がたくさんいるのを見て、なんというか、すごく健康的な国だなと思いました。
倉田:先進国の日本が、なんだか置いていかれている気がするんですよね。豊かさについて、今の日本はカンボジアから学ぶことはたくさんあるはずです。
■気になるなら、まずは肌でカンボジアを感じてほしい
南野:カンボジアには、今の日本が必要としている“豊かさ”がありそうですね。
倉田:カンボジアは自然も豊かなんですよ。周りの国がどんどん工業化して自然が減っていく中、カンボジアは内戦があったから、昔のままの自然が残っているところがたくさんあるんです。
南野:その一方で、観光でカンボジアにいくと過ごしやすいホテルも整ってきていますしね。のどかな場所もあれば、歴史を感じるところもある。そして、人も温かい。都市部だけじゃなく、地方に行っても本当に心地が良いんですよね。
倉田:カンボジアに着いた瞬間に独特な温かさに包まれますよね。隣に座ったおばあちゃんから「朝ごはん食べた?」って心配して声をかけられたこともあります。タクシーに乗ってもちゃんとお釣り帰ってきますしね(笑)。近くにいる人を家族のように気遣って、心配して声をかけてくれる人が多いんですよ。
南野:一度行くと、カンボジアが大好きになりますよね。第二の故郷のように胸に刻まれるというか。カンボジアに興味があるけどまだ行ったことがない人は、まず観光で行って、温かさを肌で感じてみてほしいです。最後になりますが、私がカンボジアのために何かできることはあるか倉田さんにお伺いしたいです。
倉田:エンタメを広めてほしいですね。舞台やコンサートをカンボジアで開催してほしいなと思います。カンボジアの人たちって、歌や踊りがすごく好きなんですよ。
実は35年前にも、日本の“どつき漫才”のようなものが流行っていました。日本で光GENJIが流行る前に、光GENJIみたいなアイドルがカンボジアで流行っていたんですよ(笑)。ぜひ日本のエンタメをカンボジアの人たちに見せてあげてほしいですね。
南野陽子初めてのフィルハーモニー大音楽会
南野陽子さんが、下記の日程でコンサートを行います。指揮は「題名のない音楽会」(テレビ朝日系)などにおいて多くの編曲を手掛けている山下康介さんで、フルオーケストラでの演奏になります。
【東京公演】
日程:2022年8月15日(月):開場 18:00/開演 18:30
場所:東京オペラシティ コンサートホール
住所:東京都新宿区西新宿 3-20-2
▼チケット
SS席:36000円(特典付き)
S席:12000円
A席:10000円
【京都公演】
日程:2022年8月28日(日):開場 15:30/開演 16:00
場所:ロームシアター京都 メインホール
住所:京都府京都市左京区岡崎最勝寺13
▼チケット
SS席:36000円(特典付き)
S席:12000円
A席:10000円
南野陽子さんは、日本とカンボジアの友好を願い、特別な歌「明日への虹」を制作しました。
これを受けて、カンボジアのフン・セン首相からは感謝状が送られています。人と人との交流、互いを尊重する気持ちを大切にする南野さんだからこその音楽をぜひ、この夏開催されるコンサートでお楽しみください。
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