(本記事は、パスカル・ブルュックネール氏の著書『お金の叡智』かんき出版、2018年4月16日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

オマハの賢人(ウォーレン・バフェットのお告げ)

 

『金』(1891)でゾラは、アマデューなる大金持ちのバカを描く。

「血色のよい、きれいにヒゲを剃った顔をした、デブの紳士」で、「運のいい田舎者の頑固さにより」、お金をすべて、株価がどん底にまで下がった中央フランスの鉱山会社に投資する。本物の、大量の鉱石が発見されると、彼にはいきなり1500万フランの利益が手に入る。

そして、「以前なら彼を精神病院に送り込みかねなかった愚かしい投資が、彼を偉大な金融頭脳の地位にまで引き上げた」のだった。

あちこちから人々がやってきて彼の助言を得ようとする。どんな質問に対しても、彼は顔をしかめてみせるだけだ。

おおむね同じ状況が、慈善団体グライド財団主催の、大金持ちウォーレン・バフェット(「オマハの賢人」)との「パワーランチ」でも見られる。

2014年に、この有名な投資家と食事をするには、たった234万ドルしかかからなかった(2000年の最初のランチは、2万5000ドルだった)。

だが前述したゾラの登場人物との大きな違いがある。ウォーレン・バフェットは有名な投資家で、その助言はものすごい価値を持つ。彼と一緒のテーブルにつくのはとても儲かる可能性があるし、彼がいるだけで成功する保証になる。

だがここには、魔法の要素がからんでいないだろうか?

15年前、「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙は、有名企業の専門家が株式ポートフォリオを運用しても、同紙の編集者がそれを運用するのに比べ1年でほぼ同じ収益しか上げられないと述べている。金融アナリストなど何の役に立つのか?

彼らは偶然をもっともらしく説明し、論理的に見せかける。その多くは、自分が市場に出す派生商品について何も理解しておらず、カモを騙すための専門用語を使う。その数理モデルは一種の手相占いのようだ。

実業家や大企業CEOがあらゆる理性を放棄して、えらく高価なランチを食べるというのはいつ見ても唖然とさせられる。

イエスともノーとも言わず、何も説明せず、何も否定せず、あらゆる主張を救いの漠然ぶりに溺れさせるのがその手口だ。聖アウグスティヌスは聖なる世界を、誰も説明できると主張できない、曖昧なアレゴリーとして見た。

ウォーレン・バフェットの客たちもまた、その招待主の舌打ちや、その噛む音や、レストランの喧噪や、ガラスのぶつかる音を解釈することになるのか?

元アメリカ連邦準備制度理事会議長アラン・グリーンスパンが、今世紀初めにこう主張したのを思い出さずにはいられない。

「あなたたちが、私が言ったと思ったことを理解したつもりでいるのは知っている。でもあなたたちが耳にしたことが、私の言いたかったことではないとお気づきかどうかは自信が持てない」

市民たちが、良いときも悪いときも、所得上昇の希望を維持する限り、彼らは失望を避けられる。金持ちがもっと金持ちになっていたっていいじゃないか。リスクを取る連中が褒美を得るのは当然だ。他の人たちも豊かになればいい。

その保証が減ると、社会的な亀裂は耐えがたくなる。一部の人の向上は、多数派にとっては許しがたい特権のように思えるようになる。

民主主義の活力は、生涯で自分の立ち位置を補うのに成功した下流や中流の人々の数で測られる。そしてその点でフランスは、その「構造的な失業の選択」(ジャン・ティロール)の犠牲者として、圧倒的に活力を欠いているのだ。

お金の叡智
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