“代打女優”になって初めて感じた「死ぬほど頑張ること」の大切さ
(画像=鈴木蘭々(すずき・らんらん)
1975年8月4日生まれ、東京都出身。デビュー当時はモデルとして、のちにバラエティ番組やドラマなどで活躍。94年より『ポンキッキーズ』にて安室奈美恵と「シスターラビッツ」として出演し、レギュラーを務めた。歌手としては95年に「泣かないぞェ」でデビューしている。2000年ごろからは舞台やドラマを中心に活動。一時期、代役として主演を務めることが続き、少ない準備期間のなかで舞台を完成に導くことができる演技力が高く評価されている 、『Woman type』より引用)

やりたい仕事は社長に直談判!
自分で作り出した『ポンキッキーズ』出演のチャンス

小学校の卒業文集に「アイドルになりたい」と宣言していたという鈴木蘭々さん。アイドル、歌手、そして女優として活躍の幅を広げながら、2013年に芸能生活25周年を迎える。

25周年という言葉に「けっこう長く居過ぎましたよね」と冗談めかして語る蘭々さんは、芸能界に入ってからも臆することなく自らやりたいことを主張し、自分をプロデュースしてきた。

「もちろん、同じ方向を向いて共に歩いてくれるマネージャーさんが、次々と新しい世界にチャレンジさせてくれたからここまで来れたと思っています。ただ、昔も今も、一方的に仕事を振られるだけではなく、やりたいと思ったことはわたしの方からどんどん口にしてきました」

例えば、高校生だった頃に見ていたテレビ番組、『ポンキッキーズ』。子ども向け番組ながら、そのおしゃれなスタイルが好きだった蘭々さんは、「ポンキッキーズに出たい」と事務所の社長に直談判。オーディションへの参加を許可してもらい、レギュラーの座を勝ち取った。

また、多忙を極めていた23歳のときに、ニューヨークへ1年弱の短期留学に渡ったのも、自らの意思だ。

「留学した理由は・・・今考えたら、若気の至りなんですけど(笑)。わたしマドンナが大好きなんです。当時読んだ『マドンナの真実』という本に、彼女がボディガードを引き連れてセントラルパークを走っているって書いてあったのを見て、じゃあニューヨークに行こうって。『一目会いたい』なんてもんじゃなく、『マドンナの記憶にわたしを残したい!』と、ランニング中を見計らって体当たりしに行こうって思ったんですよね」

比喩ではなく文字通り「体当たり」して、相手に自分を記憶させたい。蘭々さんらしいパワフルな行動だったが、残念ながら渡米と時を同じくしてマドンナは英国に移住してしまい、結局会えずじまいだったそう。一番の目的は果たせなかったものの、留学経験は自分への挑戦を経て大きく成長した期間だったと振り返る。

全ての夢を叶えたとたん、
見えなくなった“やりたいこと”

“代打女優”になって初めて感じた「死ぬほど頑張ること」の大切さ
(画像=『Woman type』より引用)

芸能界に入ったらやりたいと望んでいたのが、歌と留学。25歳までにそれらを叶えてしまった喜びの反面、次にやりたいことを見失い、モチベーションが高まらないという状態に悩まされた。

「やりたかったことを全部やり切った達成感が強過ぎて、次に何をすべきかが分からなくなっちゃったんです。夢が見えなくなったというか。ずっとモヤモヤし続けていました」

しかし、悩んでいても仕事は次々と入ってくる。整理しきれない気持ちとは裏腹に、女優としてドラマや舞台などに活躍の場を広げていった。しかし、一向にやりたいことが見つからず、悶々とした毎日を送っていたという。

蘭々さんは、当時の自分をこう振り返る。

「芸能界を辞めようかなと思った事もありましたよ。よく『いつまで続けようかな』って考えていましたね」

そんな彼女の運命を大きく変えたのが、30歳のときに突如舞い込んできた舞台出演の依頼。業界でも一目置かれる劇団『大人計画』の舞台『キレイ~神様と待ち合わせした女~』の主演である。ただし、その舞台の初日はわずか12日後。そう、「代役」だったのだ。

「一般企業風に言うなら、社長からの“トップダウン”でしたね。突然降ってきたので、『組織って勝手なことを言ってくるよな』と思ったものです(笑)。『これがやりたかった仕事だ』なんて全く思いませんでしたけど、やるなら周囲に『主演が変わって良かったよね』ぐらいのことは言わせたいじゃないですか。これで自分の評価が決まるんだと腹をくくってからは、3時間半分のセリフと歌を5日で覚えました」

芸能界に入ってから「これほど頑張ったことはないというぐらい頑張った」と話す蘭々さん。少ない準備時間や劇団独特の世界観などに翻弄されながらも、この舞台に自分の全てを捧げた。