結婚式でウエディングドレスを着る。今では当たり前の光景だが、約50年前の日本では和装が定番。1964年時点では、ウエディングドレスを着る花嫁はわずか3%しかいなかった。

そんな時代にブライダル事業を興し、日本の結婚式カルチャーを変えた第一人者が、ユミカツラインターナショナル代表であり、デザイナーの桂由美さんだ。

世界的なウエディングドレスデザイナーであり、同時にブライダル事業と学校法人の経営者でもあった桂さん。ウエディングドレスを着る人どころか、働く女性さえも珍しかった時代に、実業家・デザイナーとして第一線を走り続けてこられた原動力とは一体何だったのだろうか。

ウエディングドレス普及の立役者・桂由美さん――50年働き続けた原動力は「ブライダルへの恋心」
(画像=ユミカツラインターナショナル 
デザイナー
桂 由美さん
1964年日本初のブライダルファッションデザイナーとして活動開始。日本のブライダルファッション界の第一人者であり、草分け的存在。美しいブライダルシーンの創造者として世界20カ国以上の各国首都でショーを行い、そのブライダルイベントを通じてウエディングに対する夢を与え続け、ブライダルの伝道師とも言われている。93年、外務大臣表彰を受賞。96年には中国より新時代婚礼服飾文化賞が授与される。99年、東洋人初のイタリアファッション協会正会員となり、2003年以降は毎年パリでオートクチュールコレクション開催。05年7月、YUMI KATSURA PARIS店をパリのカンボン通りシャネル本店前にオープンし、2011年秋ニューヨークでライセンス契約での再デビュー果たすなど世界的な創作活動を展開している。著書に『世界基準の女になる! 恋するように仕事をする』(徳間書店)など
インスタ:yumikatsurajapan yumikatsura_ 、『Woman type』より引用)

ウエディングドレスどころか、ドレスに必要な生地すらなかった

これまで50年以上、もう夢中で走ってきました。母は洋裁学校を経営していて、私を後継者にするつもりでいましたから、大学は共立女子大学の被服学科に進学したんですね。でも、学生時代の私は演劇にのめり込んでいて、ドラマのプロデューサーになりたかったんですよ。結局は自分の才能の限界を悟ってファッションの道に進んだわけですけど、最初からファッション業界で生きていこうと思っていたわけではありませんでした。

そうして母の洋裁学校(現・東京文化デザイン専門学校)で講師をしていたある時、ウエディングドレスを卒業制作の課題に出したんです。大学を卒業した後にパリへ留学したんですけど、その時に見たウエディングドレスが本当に素敵で。でも、生徒と一緒に生地屋を回ってみて驚いたんです。「え、こんなに何もないの?」って。

ウエディングドレス普及の立役者・桂由美さん――50年働き続けた原動力は「ブライダルへの恋心」
(画像=『Woman type』より引用)

まず、ろくな生地がない。ウエディングドレスを作るには生地の幅が必要なんですけど、一番幅の広い生地で92センチしかなかったんです。継ぎ接ぎしないと生地が足りないし、レースもないし、ドレス用の下着も白のハイヒールもありませんでした。

当時、日本で結婚式にウエディングドレスを着る人はたったの3%。97%の人は着物で神前の結婚式をしていたんですね。じゃあこの3%の人がウエディングドレスをどこで手に入れるかというと、高いお金を出して個別にオーダーするしかありませんでした。それも、外国のファッションブックのデザインから選ぶから、日本人の体格には合わないわけです。

そういう状況を見ていて、人助けといったら大げさかもしれませんけれど、「誰かが喜んでくれるなら私がやろう」って思ったんです。そうして1964年に日本初のブライダル専門店をオープンしました。近所の人の世話ばかりしていた母の姿を幼い頃から見ていましたから、自然とそういう気質を受け継いじゃったんでしょうね。

それに私、小さい頃からシンデレラが好きだったんですね。大学の先生にも「もしもあなたがスポーツウェアのデザイナーになっていたら全然ダメだったと思うけど、ウエディングドレスならピッタリ!」って言われました(笑)

10年無給でも続けられたのは「好き」と「憧れのデザイナーの一言」があったから

当時は女性が結婚もせずに働いているのが珍しい時代でしたけど、ファッション界はそれほど男女の差がなかったんです。それに、世話焼きの仲人さんからいただく縁談のお話は、「仕事を辞めて家庭に入る」か「夫と二人三脚で経営をする」ことを前提としたものばかり。お断りするうちに、「あの人は変わってるから」と誰も縁談を持ってこなくなりました(笑)

結局42歳で結婚はしたけれど、20~30代はひたすら仕事に向き合う日々でしたし、結婚してからも変わらず仕事に励んできました。特にまだ日本でブライダルに馴染みがなかった時期は、本当に苦労しましたよ。

日本でもウエディングドレスを着る人はこれから増えていくという確信はありましたけど、ただ、それが何年後になるかは分からなかった。先が全然見えなかったんです。

ウエディングドレス普及の立役者・桂由美さん――50年働き続けた原動力は「ブライダルへの恋心」
(画像=『Woman type』より引用)

最初の頃は、年に30着くらいしか注文が入りませんでした。オーダーの相談は年間100着ぐらいあったんですが、途中でキャンセルになってしまう人が多くて。新郎のお母さんから「外国人じゃあるまいし、ウエディングドレスなんて……」って反対されてしまうと、「やっぱり、昔ながらの和装にしましょう」っていう話になってしまうんですよ。今みたいにキャンセル料の規定もなかったから、私たちは泣き寝入りするしかありませんでした。

だから、当時いた4人の社員に月給を払ったら、私の取り分はもう残らない。10年間私のお給料はゼロ。洋裁学校で4クラスを受け持って、それでお金をもらっていましたけど、そのお金もブライダルのビジネスに注ぎ込まないといけなかったから、節約のために店の2階に住んでいた時期もあります。

そんな状態でもこの仕事をやり続けたのは、やっぱりブライダルが好きだから。そして、何があってもこの世界でやっていこうと強く思えたのは、フランスのファッションデザイナー、ピエール・バルマン氏の一言が大きかったんです。

ウエディングドレス普及の立役者・桂由美さん――50年働き続けた原動力は「ブライダルへの恋心」
(画像=『Woman type』より引用)

ピエール・バルマン氏は、昭和天皇の皇后閣下のイブニングドレスを手掛けるくらいのすごいデザイナー。そんな憧れの人と、ブライダルの仕事を始めて3~4年が経った頃に食事をする機会があったんです。その時に私の店にも立ち寄ってくれて、ずらっと並んでいるウエディングドレスを見て、バルマン氏はこう言いました。

「私はこの世で一番美しいのは花嫁姿だと思っている。しかし、私自身は1年に2~3回しかウエディングドレスを手掛けることはない。だから、毎日ウエディングドレスを作っているあなたがうらやましい」

彼にこう言われた時、私、体が震えたんですよ。

憧れのピエール・バルマン氏がうらやむような人生を私が送れているのなら……このブライダルのビジネスから、私は絶対に離れない。そう決意したんです。ピエール・バルマン氏のあの言葉が、これまでずっと私を支えてくれました。