中西哲生はいつも「自分はうまい選手でも代表選手でもなかった」という。だが、そんな中西にメディアの仕事は途切れない。仕事をともにした人たちは魅了され、また次の仕事を依頼してくる。

その人気を得る秘訣は何か。またどんな努力をいつから始めたことで、スムーズにセカンドキャリアに移行することが出来たのか。プロサッカー選手が陰で重ねていた努力と、現在の「やりたいこと」を聞いた。

中西哲生さん「プロになる前からメディアの道に進もうと思っていた」

現役プロサッカー選手をやめたのは2000年です。所属していた川崎フロンターレがJ2に落ちたシーズンで、そこからメディアの道に進みましたが、選手になる前からその道に進もうと考えていました。つまり引退後に進路を決めたわけではなく、現役生活を始める前からそう決めていたんです。

ただ、サッカー選手になる前は普通に会社に就職するという選択肢も考えたことがありました。20歳だった同志社大学2年生の時に、卒業後の進路をある程度決めなければいけない時期があったのです。

ちょうどその頃にJリーグが発足すると発表されました。僕は1992年に大学を卒業しましたが、1993年にJリーグが立ち上がり、地元に名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)ができて参加することが決まり、そこでプレーしたいという気持ちが生まれていたのです。

でも一方で、サッカー選手になるのを諦めようとも考えてもました。アンダーカテゴリーの日本代表に一度も入っていないし、ユニバーシアード代表にも入ってなかった。

なので、プロサッカー選手としてやっていけるだけの実力があるのか、自分でもわかっていなかったのです。そういったこともあり、「サッカーはもう辞めたほうがいいかな」とも思っていました。

両親からのアドバイス

実家に帰ったとき母に「大学卒業したらどうするの?」と聞かれて、「たぶん商社か広告代理店に入る。中学のときアメリカに住んでいたから多少英語も話せるし、英語をブラッシュアップして、海外と仕事できるようなところがいいかな」と話していたんです。

そうしたら、その話を母から聞いて父から手紙が来たんです。「せっかくここまでサッカーをやってきて、ある程度の実力もあるわけだから、プロになるのを諦めるのはもったいないんじゃないか」と。

それで自分も思い直して、「ちょうど卒業したタイミングでJリーグができるのだから、そこまで全力でやってみて、ダメだったら仕方ない。その後の事はそれから考えればいい。だからJリーガーを目指そう」と大学2年生の冬に決めたんです。

「やれることは全部やってみよう」と。大学生なんでもちろん学業が本分なんですけど、サッカーも2年間一生懸命取り組んで、なんとかプロサッカー選手になれました。ただなれたんですが、いつクビになるかわからないし、いつ自分のサッカー人生が終わるか分からなかったんです。

そうしたら、また父に「プロになれたけど、辞めたときのことまで考えたほうがいいんじゃないか」とアドバイスをもらいました。「始める時から出口戦略まで考えて」ということだと思うんです。

それで辞めたらどうするか思いを巡らせたときに、やっぱりサッカーに関わる仕事がしたいと思ったんです。自分が得意なのは話すことだったし、教えることも好きなので、その2つを両立するにはどうすればいいだろうと考えていました。

中西哲生さん「現役を終えたあとの準備をしながら生きてた」

そこからは現役のプロサッカー選手をしながら、サッカーをメディアで伝えるための準備を始めました。グランパスで5年、フロンターレで4年、合計9年間の現役生活があったんですが、そのほとんどの時間を現役を終えたあとの準備を意識しながら生きていました。

特に川崎に来てからは強く意識していて、最後の3年は様々な準備をしていました。というのも、当時の僕には時間がありました。午前中は練習しますが、午後はないか、あっても週に1回か2回、遠征のときのホテルでも空き時間はあるのです。

その空いた時間に本を読んだり、ブログを書いてました。あの頃、つまり98年頃はブログを書いてる選手は、Jリーグ全体を見渡しても5人もいませんでした。しかも内容はチームのサイト、つまりフロンターレのオフィシャルサイトで試合のことを書いてたんです。

「今日のゲームプランはこうで結果こうなった」ということを書いていて、今なら完全にNGな内容でした(笑)。それを、今で言うモバイルみたいなことで当時からやってました。

試合からの帰りの新幹線の中で原稿書いて、モバイル端末を使って携帯電話で9600bpsで原稿を送っていたんです。チームメイトはみんな不思議がってました。そんなことをやっているサッカー選手は誰もいなかったので、「何やってるんですか?」って(笑)。

有名じゃない自分が勝負をするためにやったこと

自分は有名な選手じゃなかったし、日本代表でもなかった。その自分が勝負していくためには論理的な解説が必要だということは分かっていました。それも父から言われてたんです。

父はプロ野球の中継を見ながら、ピッチャーの配球についていつも解説してくれていたんです。でもテレビのプロ野球の解説者は「今のは素晴らしかったですね」とか、そういった話しかしません。父はいつも「これは解説ではなくて感想だ」と言っていたんです。

ただ同じことを言っても、現役時代すごかった選手であれば、もちろんその話には説得力があります。僕はすごい選手ではなかったから、そういう訳にはいかない。ラモス瑠偉さんや木村和司さんが「すごいですね」と言えば説得力はあるけれども、僕はそうじゃないんです。

そこで「すごい」ということが伝わる方法は何なのか、意識し始めました。その時、論理的に話すために1番重要なのは書くことだと教わったんです。それを教えてくれたのは、雑誌「Number」の編集部の方と、幻冬舎の専務取締役の舘野晴彦さんです。

僕は現役時代に幻冬舎から「魂の叫び―J2聖戦記」という本を出版させて頂きました。そのとき舘野さんに「とにかく書かないと話にならない。書かなきゃダメだ」と言われたんです。

本を出す段階で将来この仕事をしたいというのを伝えてあったので、そのためには何が必要かということもいろいろ教えてもらいました。そして舘野さんは僕に会うたびに、毎回15冊の本を課題図書として持ってきてくれたんです。

他の出版社の本だったんで、おそらく自分で買って持ってきてくれていたんだと思います。そして今もやらせて頂いていますが、まだ現役だった2000年7月15日から「Webマガジン幻冬舎」で「買い物ワールドカップ」という連載を始めさせて頂きました。

中西哲生「自分で自分のリミッターを切れる人間に」
(画像=『さくマガ』より引用)

中西哲生さん「サッカーを知らない人にサッカーを伝える」

その当時、幻冬舎は唐沢寿明さんと山口智子さんの「ふたり」や、郷ひろみさん、五木寛之さん、村上龍さんのミリオンセラーの本を何冊も出していました。舘野さんは、そういった方々を順番に僕に会わせてくれたんです。

唐沢さんと山口さん、そして友人の岸谷五朗さんには、舞台前など一緒にトレーニングをさせてもらっていました。村上龍さんとも何度も食事させてもらっていましたし、今考えたら、とんでもないことをさせてもらっていました。

その当時はよく周りの方々に、「お前のことなんてサッカー界以外のひとは知らないんだから、お前という人間を好きになってもらわない限りは未来はない」と言われていたんです。

「現役のときはプロサッカー選手だから寄ってくる人がほとんどだけど、辞めたら誰も寄ってこないぞ」とも言われてましたし、また「ちやほやされて、そこで満足してるようじゃ話にならない。お前が引退後にやらなければいけないことは、誰もサッカーのことを知らないところで、サッカーの事を分かりやすく伝えること。そのときにお前のパーソナリティーが認められてない限り、お前の話は誰も聞かない」とも言われていました。

本当に厳しい言葉なんですが、僕の人生において絶対に必要な言葉でした。1人の人間として信頼してもらえる、興味を持ってもらえるということが、いかに重要かを学びました。

実際すごい方々に会うと分かるんですが、みんな全く偉ぶってもいないし、本当にその場にいる方を楽しませようとサービス精神も旺盛です。逆にこちらが楽しませてもらっている状況だったので、「こういう人たちみたいにならなきゃダメなんだ」と毎回しみじみ感じていました。

こういったことに気づき、それを行動に移し始めると、「サッカー好きじゃないけど、お前が出ている試合を見るのは面白そうだから見に行くよ」と言われることも増えてきたんです。こういったことを現役時代に感じられたのは、とてつもなく大きかったです。