清少納言の実家の清原家はおそらく藤原道長派で、兄・清原致信も、俗に「道長四天王」のひとりだった藤原保昌という人物の部下となり、道長派の末端に連なっていたのですが、保昌の命でかかわってしまった殺人事件への報復を受け、寛仁元年(1017年)3月、自宅にいたところを白昼堂々リンチ殺人されたといわれています。
その一方で、清少納言という女性は、父や兄が道長派であったにもかかわらず、自分は一貫して道隆の娘である定子やその兄弟に忠誠を誓っていました。おそらく、やはり彼女が「道長ぎらい」だったのではないか……と想像されるのです。先述の通り、道隆は優れた政治家でもなんでもないのですが、「道長よりマシ」という感覚だったのでしょうか。「父親や兄と私は違う! 私は自分が信じた道を行く!」というのが史実の清少納言の「志」だったような気がしています。
とはいえ、ドラマの天才芸術家タイプのききょうも嫌いではないので、今後、彼女がどのように描かれていくのか楽しみに見守りたいと思います。
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